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ロキノン爺の逆襲

音楽のことをつらつらと。主にアルバム、曲のレビュー

魂と光の叫びを聴け SPECIAL OTHERS「マイルストーン」

 

マイルストーン

マイルストーン

 

スペアザとボーカリストとのコラボアルバム「SPECIAL OTHERSⅡ」がリリースされた。優れたメロディに、力のあるボーカリストが重なって音楽を紡いだ前作「SPECIAL OTHERS」を更にレベルアップさせたということで期待が高まった。先行リリースされた、斉藤和義との「ザッチュノーザ」も良い完成度だった。

参加アーティストの世代も広めで、最近のバンドに追いつけていない自分には刺激的だった。在日ファンクはともかくフォーリミは聴いたことなかったから新鮮だった。

 

 ■今回だけ、異論は認めない。

9mmとバックホーンは青春だったと言っていいほど大好きで聴き込んだバンドなので、それだけで非常に熱いコラボでヤバかったです(語彙力低下)。

9mmは「The World E.P.」から聴いているため、いつの間にか頼もしいバンドになっていて親戚のおじさんの気持ち。

バックホーンは、御多分に洩れず(?)古いほうが好みだが、未だに新譜はチェックして時たま心にヒットするのでやはり隅に置いておくことはできない存在。曲の当たり外れは正直大きくなってしまったが、演奏のレベルが向上しているのは嬉しいことだ。

 

■距離の近さ?

歌われている言葉がこの二人らしいのも好印象。どっちのバンドの曲と言っても十分通用しそうだ。

 

歌詞もしかることながら、聴いていると、二人の声の判別ができない瞬間があった。こんなに長く聴いている2バンドであるにも関わらず、だ。

キャリアはバックホーンのほうが長いが、昔から対バンをしていることから距離の近さへの自覚はありそうだ。歌詞のどこか闇を抱えた世界観、演奏の重厚さ、声質に共通点を感じる。

「異色のコラボ」なんという代名詞はあるが、この二人は似た者同士のコラボだ。かえってそういうものは見かけない気がする。ましてや音源として発表されるのは…ありがたいことだ。

 

■静かなる闘志

とっても失礼なことを言うが、スペアザの演奏は9mmやバックホーンより上手い。それぞれのバンドが目指すものが違うためそういうことも野暮ではあるが。牽引力の強すぎるボーカル二人だが、スペアザとの演奏のバランスは絶妙だった。引っ張るという気迫が普段より大人しく、その分歌とアンサンブルへの意識が集中したことによって、バラード曲でもなかなか聴くことのできない静かなアツさが伝わって来た。

 

バックホーンに関しては、宇多田ヒカルのプロデュースで話題をかっさらった新曲「あなたが待っている」でも今回と同じ、歌への集中力が垣間見られた。昨年のツアー「月影のシンフォニー」と相待って、この一年は山田将司にとって音楽性の深みへの模索が一層進んだのだと思わせる。

 

■成熟期へと向けて

 思えば、最初期の9mmは流血ライヴで有名で、バックホーンは暗く重たい、死にたくなるバンドの代名詞だったのだが、どちらもキャリアを重ねて色々な意味で成長した。

昨年のライヴのMCで、山田将司が「先にも進まなきゃならないが、過去の曲も背負っていかなければならない」と語っていたのが印象的だった。背負うという表現が、自分達の生んだ曲の限界を悟っている重圧を表していて、切なくなった。

彼らは、再び苦しい時期に来ているのだろう。 同じ年代でも一抜けたバンドも見られ始めたなか、自分達はどう成熟していくべきか。葛藤も多いことだろうが、様々なものを取り込んでいく貪欲さが高まっている現状なら、最終的に良い方向へ進んでくれるだろう。

 BOOM BOOM SATELLITES「LAY YOUR HANDS ON ME」

LAY YOUR HANDS ON ME

LAY YOUR HANDS ON ME

 

思っていても、口にしてはいけないことは世の中にありふれている。

一昨年、アリーナ公演が発表された際、その「口にしてはいけないこと」を直感した。考えるよりも先に手が動き、気がつけば手元にチケットがあったと記憶している。

しかし、そのチケットを使うことはなかった。

 

 

 

アルバム「LAY YOUR HANDS ON ME」から感じたのは、交響曲のような壮大さと世界観が広がった作品ということである。それは収録曲が4曲であること、表題曲の緻密さ、洗練さが相まった結果である。

これまでのシリアスな展開が多い作風とは対照的な、伸びやかさを感じる。このような曲がないわけではなかったが、一日の景色の移り変わりを全身で表現し、それに音楽が追従し、高音域における広がりにこだわったのは特筆できるだろう。有り体に言えば、彼らの新境地といったところだ。

「kick it out」という発明から、ロックンロールでありながらダンスとエレクトロニックを追求し、最後にはEDMと異なる次元へと到達した。他のミュージシャンと異なる存在感を放ち続けていたこと、時代が変わっても埋没することはなかったのは、先進的とも取れるこの音楽性をストイックなまでに貫いたからに他ならないだろう。

BOOM BOOM SATELLITESがEDMであるか否かは、微妙なところだ。彼らが昨今のEDMの先駆けではなく、EDMの行きついたスタイルが偶然にも彼らのスタイルに近くなってしまったからだと感じられる。個人的には、ビートの重さや作風の幅広さから、EDMではなく、テクノでもなく、ロックンロールだと断言している。けれど、後年になれば、彼らの評価がEDMの枠組みのなかで語られる可能性はあり得る。

もしかしたら、この作品の賛美歌とも言えるようなサウンドやアルバムが交響曲のように4曲が一つの作品として大成していることを考えれば、評価は若干変わる気がする。

 

 

リリース直後に通して聴いてから、しばらく手に取る気にはなれなかった。最後の作品として、彼らの終着点として、あまりにも出来すぎている。教科書に載るような作曲家でもここまで完璧ではない。

 

もっと遠い未来で行きついて欲しかった。もっと狂わせるような音を聴きたかった。

 

それでも、再び向き合おうと思ったのは、「NARCOSIS」の最後の音を確かめようと思ったからだ。

外でこの曲を聴いていると、音楽が今立っている場所へと溶けていく。「もっと鳴らしてくれ」「行かないでくれ」と、まるで小説のワンシーンのように叫びたくなる。

最後のブレス。きっとこのあとに歌ってくれると思わず期待をしてしまう。何を歌ってくれるのか?どんなシャウトが響くのか?

もちろん、何も流れない。外で聴いていれば、周りの喧騒に飲まれ、室内にいれば静寂だけが残る。隠しトラックもアンコールもない。

 

死を目前とした作品は、どうしても意味深な捉え方をしてしまう。それが予期されたものでも、突然のことでも仕方がないことだ。けれども、あくまでそれは受け手が想像したこと、そうしなければ残された者は救われないことでもある。いかにフィルターをかけず、この作品と向き合えるかを考えていたが、無理だった。

 

そんな自分を救ってくれたのは、皮肉にもこの作品だった。非常に単純なことだが、曲が全て暗くないということ、これだけでとても救われた。ズキズキと痛むような傷を残さず、胸が締め付けられるような思いで作品が終わる。分かりやすい暗さ、辛さを出さなかったこと。それだけで聴き手は救われてしまった。 聴く前に感じた、作品と向き合う恐怖から救ってくれたのだ。

 

 

 

立ち止まる、振り返るために生きているわけではないことをこの4曲が教えてくれた。涙を拭いて、でも胸にはちょっと痛みを残して、前に進む。そうすれば、またどこかで会えるかもしれない。

名曲に阪急マルーンを添えて 「くるり的阪急京都線沿線再発見スタンプラリー」


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シン・ゴジラで書いたらPVが伸びて感動…。ありがとうございます。

 

 

さて、「元「京都の大学生」が語る、くるりと京都」というタイトルで下書きをしていた記事がありました。

それをぼちぼち進めようと思ったところで、こんなニュースが飛び込んできました。

 

 「くるり×阪急電鉄スタンプラリーで京都の魅力を再発見」(ナタリー)

 http://natalie.mu/music/news/201078

 

阪急電車くるりとは…!!自分のためだけにある企画なのではないかと思いました 笑

大学二回生まで、阪急電車でアルバイトをしていました。河原町駅から桂駅にかけてが管轄エリアで、朝晩の通勤客を相手していました。マイク放送もやったりしていました。

 

今回は、スタンプラリーで取り上げられている駅と楽曲をレビューしていきます。

 

■ 河原町×リバー

 河原町駅は鴨川のほとりにある、阪急京都本線の始発駅。と行っても駅は地下なので、川が見えるわけではありませんが。駅の改札口の目の前には高島屋か京都マルイ(元阪急百貨店)の出入口がある街の中心であります。

 

リバーは、バンジョーによるカントリー調のイントロが印象的な曲。詞にはちょっとした焦りと、それに対する諦めがぐるぐるする、一筋縄ではいかない情景を歌い上げています。「寂しくて 寂しくて 羽がもげそうさ」とあるように、にっちもさっちもいかない現状を嘆き悲しんでいます。メロディの明るさに耳を奪われますが、誰もが経験のあるどうしようもない状態、気持ちを少しでも打破しようとあえて軽やかに歌い上げようとしているように感じられます。

ポップでありブルースでもある、しかしブルース的でもあると様々な音楽性を含んだ一曲です。

 

■ 烏丸×京都の大学生

 烏丸駅は、京都駅前から御所のほうへ北に伸びる烏丸通と阪急の上を通る四条通との交差点、京都的に言えば「四条烏丸」の直下(厳密には違うけど…まぁ許して)にあります。四条烏丸周辺はオフィス街で、朝晩は通勤客の乗降が多いです。祇園祭宵山では山鉾への最寄りということもあり、山手線も真っ青な大混雑となります。

 

京都の大学生では、「四条烏丸西入ル」と歌われますが、これは四条烏丸の交差点を西に行ったブロックを指します。「鉾町生まれ」というのも、祇園祭で用いられている山鉾を維持管理している町内を鉾町と呼んでいます。

京都は大学が多く、町中に学生が溢れています。また、喫茶店、カフェも多いので意外とコーヒーが似合ったりもします。

イントロのピアノでは和風な曲が始まるかと見せかけ、住んでみないと分かりにくい京都の風景、それとパリへの憧憬を重ね合わせた、ちょっとマニアックな曲になっています。それだけに京都へ頻繁に行く人、住んでる人は思わずにやけてしまいます。

 

 

■ 大宮×地下鉄

 大宮は、埼玉県の大宮と異なり一文字目の「お」にアクセントがつきます。これを間違えると京都人からゴミを見るような目で見られるのでお気をつけください(大袈裟)

 

 地下鉄の曲名の由来は、西院ー大宮間が近畿初の地下線として開業したことでしょうか。

6分半に迫る大曲です。「今はどんでん返しの時代じゃない 見えない絶望」「心配事なくなった未来は 面倒な約束しなくなって」という詞が響きます。外の陽を見ることのない地下鉄になぞらえた閉塞感と、将来に対する暗い感情が漂います。

これらを「裏切るな俺大人になるな」の一言がとても強く象徴しています。実は地上にでない方が幸福なのかもしれない、と暗喩しています。

サウンドは、この時期らしいロックのサウンドです。歌詞と共に、ロックンロールの本質へアプローチを試みていることがよく分かります。

 

■ 西院×ラヴソング

 西院駅は、「さいいん」と読みます。バイト中によく「にしいん」と呼ばれてこちらが戸惑いました。

しかし、ややこしいのはこの駅で接続する路面電車嵐電(らんでん)の駅は同じ感じで「さい」と読みます。これは難しい…。

西院でバスに乗り換えると、熊野神社北野天満宮金閣寺まで比較的すぐに着けます。

 

くるりの数ある曲でも、この曲はとらえどころがなくて難しいです。正直、気持ち悪い曲です。歌詞はブルースで、メロディのねちっこさはプログレっぽく、不思議な感覚です。少なくとも、ポップとは対極にあるのは間違いないです。

途中で歌われる曲作りの風景に、メロディが乗っていないのは面白いところです。歌詞と音がシンクロせずに淡々と進行していくのがやはり独特です。

 

個人的には、終盤のSEで流れてくる阪急のホームの音がハイライトですが…そんなのは自分くらいだろうか 。

■ 桂×春風

 桂駅は、桂離宮への最寄り駅。桂川を渡ってから最初の駅で、京都の中心からは完全に外れた場所にあります。

嵐山線との連絡駅で、春秋の観光シーズンや五山の送り火では大混雑します。車庫もあり、昼間に行くと洗車している電車を間近に見れたりもします。

 

春風は名曲中の名曲ですね。曲名に相応しいあたたかなサウンドと、共に語りたくなるような歌い方。それでいてアウトロではちょっと攻めたピアノとギターが聴けます。ゆったりとしたサウンドでも密度が濃く、しっかり噛み合ったアンサンブルで隙がなくつくられています。

「遠く汽車の窓辺からは 春風も見えるでしょう」の一文は、随所にちりばめられた春のモチーフを昇華させています。はっぴいえんどから始まる日本語ロックの一つのアンサーとも言える名文です。

 

■ 東向日×チアノーゼ

 東向日駅は、自分の所属駅の管轄からは外れたてた上に周辺に目的地がなかったため縁遠い駅でした。強いて言えば、JRの向日町駅がちょっと近いので乗り換えで利用したくらいです。

いつの間にか激辛商店街なるものができていて、非常に興味をそそられたのですが行く機会がないまま関東へ越してしまいました。

 

この曲はなんといっても「夕暮れ前の東向日駅梅田方面行きのホームが好きだ 本当に好きだ」の歌詞にしびれます。

サウンドは好き放題掻き鳴らしています。パンク…というにはちょっと大人しいかもしれませんが、個人的にはかなりパンクだと思います。崩壊させると見せかけてきちんと仕組まれたフレーズや装飾はいやらしさも感じます。自己批判と多忙な日常に殺されかけた、生きている時代も忘れてしまったほどギリギリの感情を叫んでいます。チアノーゼという言葉は唇や皮膚が真っ青になってしまう状態を指しますが、この曲では確実に心が変色しています。

 

■ 長岡天神×ばらの花

 長岡天神駅は、長岡京市の中心に程近い駅です。駅前も栄えていて、特急停車駅になってからは京都、大阪双方へのアクセスも容易になりました。

個人的にも思い出深い場所で、駅から歩いて10分ほどにある長岡京記念文化会館には演奏会を聴きに行ったり、ステージで演奏したりと幾度となく訪れた場所です。

 

ばらの花が長岡天神の駅スタンプとなったときに思い浮かべたのは、長岡天満宮の前にある池の景色でした。

ふわふわしているようでいて、芯のあるリズムで安定感を出しています。「雨」や「夜」など、しんみりとした印象を与える詞をメロディが際立たせています。それに対して「旅」「バス」という言葉が、遠い場所への憧れを引き出してきます。一瞬目の前が開けたような気がしたけれど、すぐに寂しい現実へと引き戻してきます。

 

■ 大山崎×HOW TO GO

 大山崎駅は、京都府内で最も西にある駅です。ホームの目と鼻の先に府境があります。京都・大阪のベッドタウンでありながら、自然も豊かで過ごしやすそうな場所です。

 

 くるりの曲のなかでもこれだけ骨太な低音は貴重です。どっしりと構えることで自由に繰り出されるリフ、歌、泣いてるギター。どこかレトロなサウンドで「How to play the Guiter」と歌っています。それだけ弾いときながら問われても戸惑ってしまいますが、それが狙いでもあるのでしょう。詞に夏という単語が入っているせいか、強い日差しのようなギラギラした感じもしてきます。

サウンドとは関係ないですが、この曲はオリジナルアルバムでもベストアルバムでもラストトラックに選ばれることが多いことです。そして偶然なのか、このスタンプラリーでも最後のスタンプに位置付けられています。なんとなく曲名とマッチしていて個人的には興味深いところです。 

 

 

■CDにして欲しいチョイス

アルバム曲やカップリング曲が多く、なかなか玄人向けだなと感じていますが、通して聴くと意外にバランスが良く驚きました。これだけでアルバムとして通用するのではないかと思います。京都というコンセプトも面白いので、アジカンの「サーフ ブンガク カマクラ」みたいな感じでCDを発売して欲しいです。

もちろん、ジャケットは表裏ともに3300系を起用して…。

 

【ちょっとだけネタバレ注意】DNAに刻まれたビート 伊福部昭「宇宙大戦争マーチ」

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

シン・ゴジラ観てきました。最初はそれほど興味がなかったのですが、異常なまでの前評判の良さだったので興味を持ちました。でも考えてみればゴジラ庵野秀明、鉄道、そして伊福部昭って俺が楽しめないわけないんですよね。

 

■初代ゴジラへのリスペクトと追体験

映画のなかでは、初代を意識させる場面が、それも焼き直しではなくきちんと解釈した上でいくつも見られたのが好印象でした。

謎の巨大生物が表れたときの人々の戸惑い、圧倒的な大きさと力に対する恐怖と無力感が破綻なく描かれていました。ゴジラ映画は何本か見ましたが、はじめて恐いと感じました。初代を観た半世紀前の人たちはこういう恐さを感じたのではないかな、と図らずも追体験をすることになりました。

 

■随所に散りばめられた庵野ワールド

 観に行く前は、「エヴァの出てこないエヴァなんだろうな」と、あまりいい期待をしていませんでした。実際に見てみると、ストーリー全体としてエヴァを意識させられることはなく、きちんとゴジラとして見ることができました。

それでも、フォントの使い方やBGMでは庵野作品のモチーフが入っていたのが面白かったです。無理矢理組み込んだいやらしさがなく素直に受け入れられました

 

宇宙大戦争マーチのこと

映画のことはこのくらいにしておいて…普段あまり観ないから感想書きづらい。。

宇宙大戦争マーチ」の初出は1959年公開の映画「宇宙大戦争」のテーマ曲。さすがに観たことがなく、wikiであらすじをさらっただけですが、今から見るとなかなかレトロなSF映画です。そのテーマ曲としては随分と勇ましい感じがします。こればかりは観てみないと分からないところですね(でも緑茶のCMよりは似合うか…)。

後でもちらっと話しますが、伊福部昭が音楽を担当した作品ではアレンジや使い回しが多く見られます。楽をしているからといえばそこまでですけど、一曲ごとの完成度が高いからこそ成せる技かなと個人的には肯定的に見ています。

事実、サントラで用いられた数々の作品は「SF交響ファンタジー」としてクラシックコンサートのプログラムにも組み込まれる作品にまとめられています。

 

■エッセンスを凝縮 

宇宙大戦争マーチですが、この曲は言えば二部構成になっています。

一部では幅のある導入部から、スネアが刻む緊張感のあるリズムに合わせて勇ましさを感じるメロディが繰り返されます。中盤のピアノによる不協和音、終盤の木管による不安を煽るトリルを打ち消すように、主旋律が頼もしさを増して重ねてきます。

二部はトランペットのファンファーレからはじまり、前半から一変してアップテンポへ。ボルテージは徐々に上げつつも、変拍子(厳密にはちょっと違うけど)で時々息を整えて冷静さも保ちながら進んでいきます。キャッチーで、「男らしさ、力強さ」をそのまま音楽にしたようなメロディが繰り返されていきます。

スネアは速さの違いこそあれど変わらないリズムを打ち続け、曲の連続性を主張しています。低音パートはほぼ同じ音を続けているだけですが、力強さを下から支えています。

 

個人的には、終盤でのピアノの主旋律がちゃっかりリズムを刻んでいるところ、その直後はあえて淡々と演奏してファンファーレを際立たせているところが大好きです。

あれやこれや言っていますが、やっぱり勢いありきの音楽ですね。

 

曲のつくり方(前半が重々しくかつ遅い一方で、後半は速い)は「交響譚詩」「日本狂詩曲」と同様で、そのエッセンスを濃縮した印象です。曲の長さは4分程度なので、手軽に聴けるクラシック作品と言っても差し支えはないかもしれません。

 

それにしても作中での使われ方は反則ですね。N700の特攻に合わせてこれが流れるのは反則だよ!!反則だって!!!!

 

伊福部昭の「ビート」と日本人

自分自身がコントラバス弾きということで、嫌でもベースに耳がいってしまいます。

宇宙大戦争マーチ」に限ったことではないのですが、伊福部昭作品の低音は8分音符で同じ音をアクセントを交えつつ鳴らす箇所が多くなっています。ポップス的に言えば「刻み」ですね。

クラシック音楽は伝統的かつ文法的にリズム、ビートをあまり意識させない、させてはいけないつくりになっています。指先や足で拍をとることは頻繁にありますが、リズムに合わせて身体を揺らす、踊らせることはなかなかありません。極端に言えば「ボレロ」でヘドバンする人がいないようなものです。

 

一方で、伊福部昭作品はリズムを刻んでいくことを全く恐れていません。行進曲であろうとなかろうと、力強さの象徴として、スピード感を出す推進力として多用しています。

けれども僕自身はそれだけだと思いません。本来の意味からは外れてしまいますが、ポップスやロックにおけるビートに近い役割、概念を打ち出したと考えています。特に、日本の音楽において、歌謡曲からロックンロールへの橋渡しをした存在ではないかと推測しています。

メロディを支える低音および打楽器が、和太鼓のような響きを出している点は見逃せません。日本的メロディのなかにノリやすいリズムを加えたことによる影響は、クラシックだけではないはずです。日本人が好む響きで新たな概念を打ち出せば自然と受け入れられることでしょう。

幸いなことに、伊福部昭は映画音楽をはじめ、クラシック作曲家としては多くの人の耳に触れる機会が多かったです。聴かれていくなかで、日本人の音楽の感性が育まれていったことでしょう。

 

ここで誤解をして欲しくないのは、宇宙大戦争マーチで踊れるということを言ってるわけではありません。しかし、日本人の心臓をがっちりと掴んで揺さぶってくるビートがそこにあると思います。

 

■おまけ1:伊福部昭と鉄道

シン・ゴジラではシンプルなかっこ良さがありましたが、伊福部昭作品と鉄道の映像では「つばめを動かす人たち」も絶妙です。重々しいメロディと共に動く車両たちは感涙ものです(鉄道オタク並の感想)。

 

しかし、調べるとここで使われた音楽がメカゴジラのテーマにアレンジされていることを知りました。確かにEF58型電気機関車のメカニカルな感じ(後半はC62型蒸気機関車が出てくるため余計に近代的に見える)とマッチしていたので、使い回されたのはちょっと納得ではあります。

 

■おまけ2:ゴジラ

上映後の帰りがけに、一緒に観に行った人に過去のゴジラ作品についてあれこれ解説をしたのですが、よくよく考えると観た作品ってほんの少しで「おやっ」と感じました。ほぼ見てないはずなのに、ストーリーやシーンは何となく頭に入っている…。不思議に思い、記憶を辿ってみると、小学生の頃(4年生くらい?)に地元でやっていた「ゴジラ展」に一人で行ったことを思い出しました。ここで一通りおさらいをしていたわけでした。初代作品は会場内でしっかりと上映してた気もするし、ここで覚えてきたのかな。

 

■注釈

今回の記事では、スコアは読んでいないです。曲目解説では読むべきではありますが、第一印象で判断するポップス的な聴き方を意識してみました。クラシック畑の人からするとミスリードだらけかと思いますが、ご理解ください。

性春は不変だ。 銀杏BOYZ「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」

 

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

 

 

 

…思い返すだけで前回の記事が破綻してて恥ずかしい。f字孔があったら入りたい。

 
自分の言葉で音楽を考えることの難しさを痛感しましたが、めげずに続けていきます。あと、読みづらかったので書き方もかえてみます。
 
 
■疾走感と終末感
 
今回は銀杏BOYZを取り上げてみた。
パンクロックならではの激しさ、混沌さがよく出ている音楽である。
この作品は全体を通して、どこか終わりに向かっている。前半ではパンクという表現と強烈な歌詞で蓋をしているようだが、アルバムが進むにつれて太く短い青春の終わりに気づいてしまった苦しさ、「こんな世界には興味がない」と言いつつも本当に世界がひっくり返ってしまったときの戸惑いや恐怖が滲み出てくる。詳しくは後述するが、それでも生きていこうとする意思が感じられる不思議な作品だ。
 
 
■悪意はさらに満ちてきた
 
トラック6「なんて悪意に満ちた平和なんだろう」で歌われているものとは比較にならないほど、今は悪意に満ちていると思う。感じ方は人それぞれであろうが、一人一人が監視役になって、お互いを陥れようとしている。それこそ戦争のように血を流して人がたくさん死ぬことはないが、今の社会は確実に人の生きる力を奪っている。死ぬことだってある。2011年に「絆」という言葉が使われ、実際に震災の被害にあった土地ではそれが感じられたと信じているが、2016年の東京ではとても感じられない。自分の身を守るので精一杯の現状では仕方のないことだろう。
 
例えばヘイトスピーチの問題をとってみると、人間の感情的な部分を見ずに不毛な議論をかわしているように感じている。自分は論理的に意見を述べていると感じている人間ほど感情に流されている感じがする。自分は頭が悪いので政治的なことに対するこれ以上の言及は避けるし、音楽の話題に入れるのもナンセンスであろう。それこそ、誰に監視されているかわからないので。
 
 
■変わらない男子の恋愛感情
 
青春の恋愛を歌った曲はたくさんある。
神田川」「なごり雪」などなど。
…選曲が古いって?いや好きなんすよ、意外に。
確かに、銭湯で待つ光景は廃れてしまったけれど、人を待つときの気持ちや別れ際の押し潰されそうな感情は変わらない。もっとも上記の二曲や巷のラブソングみたいに綺麗ではなく、男子中高生みたいにバカな妄想である。しかし、その妄想オンリーな脳内をここまで歌にできていることに驚かされる。一緒にソフトクリームを食べたい気持ちとか、ジャージを盗む行為は不変的である…はずだ。自分の学校ではそんな事件なかったけど、そうしたい気持ちはバカな男子諸君はみんな持ってたよね。
 
■駆け抜けたあとも生きていく
 
アルバムのなかで、トラック7「もしも君がなくならば」からトラック12「若者たち」の畳み掛けてくる曲の流れがとても好きだ。様々な人の思いをストレートに歌い上げ、喜びも悲しみも心の中へスッと入ってくる。
 
終末感について触れたが、青春が終わったから死ぬのではなく、目の前から何もなくなって戸惑っても、生きようとする意思がある。振り返り、思い出に浸るのではなく、前に進むためにポイントとしている。生きてきた時代に捧げ、そしてトラック10「漂流教室」では亡き友へ捧げている。たとえ曲のテンポが下がり、後ろ髪を引かれる思いがしても、こんな場所では死ねない、という決意が芯に宿っている。
不器用だから、どう生きていくかまでは提示されていない。でもそんなことまで考えなくてもいい。極端だが、前を向くことこそが生きていく方法だ、とも感じ取れる。
 
■無様な人たちへ歌っている
 
むさ苦しいほどの熱量があるアルバムだ。しかしながら、「現代への応援歌」などといって簡単に人を後押しするような作品ではない。どこか不甲斐なかった青春時代を送っている、あるいは送ってきた人間にしか分からないロックンロールである。そんな人間はダメだし、時代なんてもっとダメである。そんななかでも振り返り過ぎずに、目の前の障害を無様でもいいから乗り越えて進んでいけばいい、と示してくれている。
 
 
■おまけ
何となくアルバム名でググってみてヒットしたレポートが面白かった。
阿部嘉昭ファンサイト: 銀杏BOYZ『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』について(林 幹大)」
 
時代背景をよく整理していて興味深かった。たまにはこういう観点でも書いてみたいな。

この音は世界に届くのか? サカナクション「sakanaction」


アルバム「sakanaction」は、2013年に発売された、サカナクションの最新アルバムである。これだけ人気がありながら、アルバムが3年以上リリースされていないことに、この記事を書きながら驚いている…。
アルバム全体を通して感じるのは、何事にも媚びず、かといって空元気でもない、正直な作品ということだ。これを聴いて元気になれる!!生きる活力が湧いた!!というような作品ではなく、むしろ心のなかにある迷いがストレートに伝わってくる。
サウンドに関しては、シングル曲はこの時点でポップスとして完成されている。アルバム曲は、その先にある次元、現代音楽のような難解さと奥深さを感じられる。音楽の作り方について思う点は後述する。
ある程度完成されている音楽に対し、作品から伝わる迷いをリスナーに届けているのは、叙情的な歌詞が大きな比重を占めている。

「青さ 思い出せば また見えた
若いあの姿と海の音 海の音」(Aoi)

「南南西から鳴く風
なぜか流れた涙
なんてったって春だ」(なんてったって春)

日本語の奥ゆかしさを活かした歌詞である。情景描写は演歌的でもある。しかしながら曲中では、強烈なリフレインとキャッチーなメロディを用いて畳み掛けてくる。「一度耳にしたら忘れない」という言葉がピッタリと当てはまる。曲を聴いて何となく覚えて、あとで歌詞カードを見て深みに驚かされる二段構えである。



サカナクションの音楽は、本来なら大衆ウケのするものではないと考えている。複雑なサウンドに、叙情的な歌詞はポップスを聴いている耳には入ってこないはずである。実際、アルバムに収録されている「Inori」や「映画」などは、ポップスとは対極にある作品である。
本来の音楽性を維持、提示しつつ日本の音楽シーンに入り込めているのは、徹底的に追求された曲の進行である。
日本では、AKB系列のようなメジャーなポップスからマキシマムザホルモンのような激しいロックバンドまで、曲の進行は全く一緒である。少しでも逸脱すると途端に聴かれなくなってしまうと言っても差し支えないだろう。批判も多いが、これ自体は良くできているシステムだと感じられる。日本だけではなく、海外にも存在するとは思うが。それらに対して、サカナクションの楽曲はその構成を徹底的になぞっている。シングル曲に関しては、歌い方までも統一されている。
このような曲作りは、ミュージシャン自身からも敬遠されるが、サカナクションの場合は研究を重ね、一つのテンプレートを作り上げた。
どのような曲も同じになってしまう、と思われるかもしれないが、その形にさえはまればあとは何をしてもいいということでもある。特に、ポップスの潮流に乗っ取った上で作られた独自のテンプレートであるため、何をしても「サカナクションの曲」になり、売れるのである。
シングルとアルバムの使い分けも興味深い。シングル曲だけでは大きな変化は読み取れないが、アルバム単位で聴くと、その音楽性の豊かさがよく分かる。


さて、この記事ではなぜサカナクションを世界の音楽シーンに結びつけようとしているのか。これは彼らの活躍が、YMOのイメージと結びついてしまうためである。

共通項を見つけようと思っても、これはかなり難しい。サカナクション電子音楽を多用しているが、テクノかと言えば(今のところは)異なる。それよりも近いとすれば、踊らせる音楽であることだろうか。しかしこれも決定力、説得力に欠ける。日本人と電子音楽はかなり親和性が高いのはYMOBOOM BOOM SATELLITES電気グルーヴの評価から裏付けられるが、それ以外のところは完全にイメージでしかない。
それにもかかわらず、YMOサカナクション、山口一郎と坂本龍一が重なって見えてしまう。「何となく」以上の理由が見つからないのが悔しい。


イメージの話を抜きにして、世界に通用するかを考える。
記事タイトルを否定するようで恐縮だが、この「sakanaction」は世界に出ても売れるとは思えない。しかし、彼らの従来の作品と比較して、バンドサウンドからの離脱とその先のサウンドへの接近が強く感じられる。それはEDMか、はたまた現代音楽かは断言できないが、邦楽ロックバンドのサウンドの枠をはみ出して、音楽の深み、説得力を増してきている。
弱点は、日本語ロックであることだ。この表現を訳すことは不可能である。バンドとして世界に出るとすれば、これが足枷となってしまうだろう。海外において日本語であることを強みにできたミュージシャンは皆無であると個人的には考えている。日本に英語以外の洋楽があまり入ってこないことと同じである。
これらは2013年の作品の感想である。このあと、音楽性にはさらに磨きがかかってきた。言葉の言い回しも良くなっている。日本語であるからこその良さであり、海外に通用するかどうかを考えるなどナンセンスな話なのかもしれない。


久しぶりに、世界に飛び立てる日本人ミュージシャンが出るとすれば彼らである。遠い国で多くのオーディエンスを踊らせる日が来ると勝手に願っている。

00年代の指標 ASIAN KUNG-FU GENERATION「ソルファ」

アジカンの出世作と言える一枚。最も勢いがあったタイミングといい、粗っぽさが減り深みが増した楽曲といい、恵まれた状況下でリリースできたことを感じる

全体像としては、彼ららしいロックンロールをぶれなく提示している。これ以降の作品が(良作ではあるが)実験的であったり、やや軸が不安定であることを考慮すると、現在でも愛され、影響力を持っているのがこの作品であることも納得ができる。



M1「振動覚」は2分半弱と短めながら、アルバムの全体像を聴き手に示している。

『世界の端まで届く声より
君にだけ 伝えたいだけ
六弦の三フレット 刻むマイ・ギター
心だけ 奮わせたいだけ』

『特別な才能を
何ひとつ持たずとも
心 今 此処で掻き鳴らす』

詞が語る、彼らの現在地への戸惑いと決意も魅力的だ。

M2「リライト」は、もはや語るまでもないだろう。00年代の曲が今もラジオで流れてくるというのは驚きである(それも、10代からのリクエストで…!!)。

M3「君の街まで」ではややテンポを落とし、M4「マイ・ワールド」は遅くはないが強めの歌い方で、続けて聴くと緩急が分かり心地よい。

M5「夜の向こう」は、「ファンクラブ」以降にも続く要素がふんだんに含まれている一曲だと考えている。歌い方に語り口調が見られ、詞の情景描写も他の曲より文学的である。

M6「ラストシーン」は、アルバム内で最も際立った作品である。テンポは遅く、ビート感もつかみにくい。バックコーラスも印象的だ。

『そっと目を伏せて
逃げ込んだはずのワンダーランド
失くした想いも拡がって弾ける
さよなら

溶けるほど澄んだ空』

これは邪推かもしれないが、悲しさ際立つ歌詞は、当時の不安が反映されているのではないか。「振動覚」とは真逆である。力強さだけではない、弱みを一瞬見せる様が作品のバランスを、たった一曲で作ってしまっている。
残念なのが、このような曲は「ファンクラブ」以降では発表されなかったことだ。影響を受けたであろう曲は多いが、ここまでハッとさせられたことはない。

M7「サイレン」では再びビートが蘇る。それに引き続きM8「Re:Re:」で明るい感じへと戻っていく。

「Re:Re:」ポップと言えるか言えないかの境界線にあるキャッチーなメロディに対し、あえて跳躍しない丁寧な歌い方が面白い。おそらく、もっと軽やかに歌えばポップになっただろうが、それを行ったらアルバムのバランスは崩れていただろう。

M9「24時」は直球かつ王道の曲構成であり、「夜の向こう」や「Re:Re:」と比較してそのシンプルさが輝く。ただ、軽い感じは否めない。

M10「真夜中と真昼の夢」は、「ラストシーン」と同じ線上にあるはずだが、スッと耳に入ってきて、印象に残りにくい
。ビートの有無、歌い方の差などによるからだろうか。

M11「海岸通り」は、アルバムのなかでは最も具体的な情景が浮かぶ曲である。抽象的もしくは文学的な曲が多いなかで、春の海岸の夕暮れを歌い上げている。ソングライティングの幅広さを示している。そして、この幅広さは「サーフ ブンガク カマクラ」で存分に発揮されることになる。

M12「ループ&ループ」。この曲を最後に持ってこれるとはなんて贅沢だろうか。


アルバムを通して聴くと、楽曲の構成、緩急の付け方が良くできている。前述したロックバンドとしての芯を大切にしつつも、独りよがりでは作れない、かといって背伸びしすぎないストーリーを組み立てている。


彼らはデビュー当初、とある音楽雑誌では「東洋のWezzer」としばしば書かれていた。とあるバンドスコアでは、「ナンバーガール的なサウンドで…」と書いてあった(ちなみに友人はその解説のせいで、ある曲をずっとナンバーガールのカヴァーだと思っていたらしい)。いい加減というか、ひどい言われようというか…。
しかし、そのような話を聞かなくなったのは「ソルファ」の辺りからだろう。
君繋ファイブエム」までのアジカンのサウンドはWezzerに限らず、90年代の洋楽の影響を多く感じられた。そういう点はいかにも日本のバンドらしいと感じてしまうが。それらも「ソルファ」である程度昇華でき、自身の独自性をアピールできるようになったと考えられる。

00年代は、様々なバンドが出てきたが、2016年のいま、驚いたのはその日本のバンドに影響を受けた(であろう)バンドが数多く見られるようになったことだ。そのような状況になって感じるのは、この作品が00年代における邦楽ロックの指標の一つとなったことである。
近年人気のあるバンド、特に四つ打ち系のものは確実に「ソルファ」を通過してきたと感じる。むしろ、避けて通った人は少ないのではないか。惜しいのは、00年代邦楽ロックの影響を受けたものの、それを薄めただけのサウンドが現状は多いことだ。皮肉にも初期のアジカンがそうだったように、そして日本の音楽がずっとそうだったように、必ず通る道なのだろうが…。

そんな「ソルファ」だが、今年の秋に再録盤がリリースされる。2016年のいま、指標となった作品が再提示されることは楽しみである。10年前より洗練された音楽性を存分に発揮していただきたい。また、10年代後半や20年代を牽引するであろう未だ見ぬミュージシャン達に響き渡ることを望んでやまない。