ロキノン爺の逆襲

音楽のことをつらつらと。主にアルバム、曲のレビュー

この音は世界に届くのか? サカナクション「sakanaction」


アルバム「sakanaction」は、2013年に発売された、サカナクションの最新アルバムである。これだけ人気がありながら、アルバムが3年以上リリースされていないことに、この記事を書きながら驚いている…。
アルバム全体を通して感じるのは、何事にも媚びず、かといって空元気でもない、正直な作品ということだ。これを聴いて元気になれる!!生きる活力が湧いた!!というような作品ではなく、むしろ心のなかにある迷いがストレートに伝わってくる。
サウンドに関しては、シングル曲はこの時点でポップスとして完成されている。アルバム曲は、その先にある次元、現代音楽のような難解さと奥深さを感じられる。音楽の作り方について思う点は後述する。
ある程度完成されている音楽に対し、作品から伝わる迷いをリスナーに届けているのは、叙情的な歌詞が大きな比重を占めている。

「青さ 思い出せば また見えた
若いあの姿と海の音 海の音」(Aoi)

「南南西から鳴く風
なぜか流れた涙
なんてったって春だ」(なんてったって春)

日本語の奥ゆかしさを活かした歌詞である。情景描写は演歌的でもある。しかしながら曲中では、強烈なリフレインとキャッチーなメロディを用いて畳み掛けてくる。「一度耳にしたら忘れない」という言葉がピッタリと当てはまる。曲を聴いて何となく覚えて、あとで歌詞カードを見て深みに驚かされる二段構えである。



サカナクションの音楽は、本来なら大衆ウケのするものではないと考えている。複雑なサウンドに、叙情的な歌詞はポップスを聴いている耳には入ってこないはずである。実際、アルバムに収録されている「Inori」や「映画」などは、ポップスとは対極にある作品である。
本来の音楽性を維持、提示しつつ日本の音楽シーンに入り込めているのは、徹底的に追求された曲の進行である。
日本では、AKB系列のようなメジャーなポップスからマキシマムザホルモンのような激しいロックバンドまで、曲の進行は全く一緒である。少しでも逸脱すると途端に聴かれなくなってしまうと言っても差し支えないだろう。批判も多いが、これ自体は良くできているシステムだと感じられる。日本だけではなく、海外にも存在するとは思うが。それらに対して、サカナクションの楽曲はその構成を徹底的になぞっている。シングル曲に関しては、歌い方までも統一されている。
このような曲作りは、ミュージシャン自身からも敬遠されるが、サカナクションの場合は研究を重ね、一つのテンプレートを作り上げた。
どのような曲も同じになってしまう、と思われるかもしれないが、その形にさえはまればあとは何をしてもいいということでもある。特に、ポップスの潮流に乗っ取った上で作られた独自のテンプレートであるため、何をしても「サカナクションの曲」になり、売れるのである。
シングルとアルバムの使い分けも興味深い。シングル曲だけでは大きな変化は読み取れないが、アルバム単位で聴くと、その音楽性の豊かさがよく分かる。


さて、この記事ではなぜサカナクションを世界の音楽シーンに結びつけようとしているのか。これは彼らの活躍が、YMOのイメージと結びついてしまうためである。

共通項を見つけようと思っても、これはかなり難しい。サカナクション電子音楽を多用しているが、テクノかと言えば(今のところは)異なる。それよりも近いとすれば、踊らせる音楽であることだろうか。しかしこれも決定力、説得力に欠ける。日本人と電子音楽はかなり親和性が高いのはYMOBOOM BOOM SATELLITES電気グルーヴの評価から裏付けられるが、それ以外のところは完全にイメージでしかない。
それにもかかわらず、YMOサカナクション、山口一郎と坂本龍一が重なって見えてしまう。「何となく」以上の理由が見つからないのが悔しい。


イメージの話を抜きにして、世界に通用するかを考える。
記事タイトルを否定するようで恐縮だが、この「sakanaction」は世界に出ても売れるとは思えない。しかし、彼らの従来の作品と比較して、バンドサウンドからの離脱とその先のサウンドへの接近が強く感じられる。それはEDMか、はたまた現代音楽かは断言できないが、邦楽ロックバンドのサウンドの枠をはみ出して、音楽の深み、説得力を増してきている。
弱点は、日本語ロックであることだ。この表現を訳すことは不可能である。バンドとして世界に出るとすれば、これが足枷となってしまうだろう。海外において日本語であることを強みにできたミュージシャンは皆無であると個人的には考えている。日本に英語以外の洋楽があまり入ってこないことと同じである。
これらは2013年の作品の感想である。このあと、音楽性にはさらに磨きがかかってきた。言葉の言い回しも良くなっている。日本語であるからこその良さであり、海外に通用するかどうかを考えるなどナンセンスな話なのかもしれない。


久しぶりに、世界に飛び立てる日本人ミュージシャンが出るとすれば彼らである。遠い国で多くのオーディエンスを踊らせる日が来ると勝手に願っている。