ロキノン爺の逆襲

音楽のことをつらつらと。主にアルバム、曲のレビュー

GRAPEVINE「イデアの水槽」

 

イデアの水槽

イデアの水槽

 邦楽オルタナティブロックにおけるマイルストーンと勝手に位置付けている。

鬱々とした感情、垣間見える生活、飢え、些細なものへの苛立ち。

アルバムを通して聴いたあとに浮かんだイメージ達だ。日常のフラストレーションと喜びが絶妙に組み合わさっている。サウンドの重みがそれらを引き立てる。

 

 ギャップこそが本心か

少しずつ歩み寄ってきて、最後にハジけた革命をイメージさせる「豚の皿」。シリアスでヒリヒリするような展開で肌がチクチクする。一曲目がこれだ。どんな暗い世界が待ち受けているのだろうか?と思わせる。

それに呼応するかのように、パンキッシュに流れ出すのは「シスター」。掻き鳴らしているというのがお似合いな演奏なのに、ふとメロウなフレーズが展開される。

 

 

…ときてからの「ぼくらなら」。このギャップは何なの?


GRAPEVINE - ぼくらなら

決して この道の歩き方を

知らないわけじゃない

上着が居る事も

陳腐な表現で恐縮だが、等身大の言葉で語られるサビがよく響く。

前二曲が現代芸術のような、難解でカオスなものであったからこそだろうか。同じ目線に降りてきて語られる詩によく引き込まれる。

 

「ミスフライハイ」「11% mistake」では再び難解ゾーンに突入する。前者はヒステリックな人物(「あたし」という一人称から女性だと思う)が良く描写されている。こういう人結構いるよね(小声)。後者はほんとに分からない。ベースが気持ち悪くてついつい聴き入ってしまうけど、分からない。

 

「アンチ・ハレルヤ」は軽やかなサウンドと歌い方でアラサー近辺の心を刺してくる。こればかりは高校生の頃に聴いたときは分からなかった。サビの「ハレルヤベイビー」の気持ち良さはアルバム内随一だ。

 ベタベタのラブソングもすべて自分に内包される

「会いに行く」「公園まで」の流れは完璧だ。連続した曲だと捉えている。並び方、歌の世界観として繋がっているように感じる人が他にもいると勝手に思っている。

 

ひとりで

何を想うだろう

言葉にして

ひとつづつ忘れて

急いで会いに行きたいなら

綺麗事は言ってられないよ

 

「会いに行く」は、恋愛感情というか、愛というか、そのようなものと、それに蓋をしてしまう自分に「本当はどうしたいの?」と問いかけてくれる曲だと思っている。

 


GRAPEVINE - 会いにいく

MVも最高だよね。コンパクトだけど濃い。こういうの録りたい。

 

「公園まで」は、会いに行ってデートとかしちゃっているのかと思うし、めっちゃ惚気てる。

頻出するワードとして「ラブソング」がある。丁寧に「言うなればブルースを」と解説がついている。クリスマスを終わったくらいの年末に、ディランみたいな歌を歌っているのかな。にやける。

 季節と色について

頻出ワードといえば、よく出てくるのが「冬」という単語だ。

これを意識して聴いていくと、内面を叫ぶ曲へは冷たさが加算され、穏やかな曲には温かさが加算される。

これを片隅に置きながら「Good Bye My World」を聴く。

 

いつも通り ベッドの上

忘れてきた

三つ読んで

そっと雨にうたうか

星になるか

 

雨の情景に冬を加えると、全てを洗い流していく様子と、凍えるような水滴の冷たさをよりリアルに感じる。このように感じたのは、聴いた瞬間から、この曲をはっぴいえんどはっぴいえんど」(ゆでめん)の「十二月の雨の日」のように捉えていたからだ。偶然だけど、サウンドの透明感が似ているのも重なった。

 

 「SEA」ではバラードに。曲名、歌詞、サウンドのどれからも青っぽいイメージを受ける。梅雨入り直前で曇りの日の、早朝の海と空のようだ。カモメの鳴き声に似たギターのフレーズと共に、あの時間の色と肌寒さが再現される。

色んな感情が渦巻く楽曲たちのラストを飾るのは「鳩」

 

鳩が群がってら

エサでもやろうかねえ

おまえらが皆ひとつになろうが

どうなるもんじゃねぇ

 

ちょっとシュールなんだけど、結局このアルバムは苛立ちを中心に据えてきたのだなと感じさせる。

 

最近、オルタナティブロックについて少し勉強し直した。それを踏まえてから改めて「イデアの水槽」を聴いてみて、以前聴いたときとは全く異なる発見があった。それに加えて、何度も繰り返し聴いてきる理由を完全に理解した(してない)。自分ではないのに自分のことをもっと良く知る人物が降りてくる感覚こそが、オルタナティブロックがオルタナティブロックたる所以であろう。